2014年御翼10月号その2

自分は正しい、と思おうとするから、辛くなる―横田早紀江

  

 1977年に当時13歳だった横田めぐみさんが行方不明になり、北朝鮮に拉致されたと分かるのが約20年後の1997年であった。母親の早紀江さんは何も知らないまま、千葉でのキリスト教の集会で、「せめて娘がどこにいるのかだけでも教えてください」と、仲間とともに祈っていたという。帰宅後、父親の滋さんから今日入った情報について聞かされ驚くとともに、「生きていたのね、めぐみちゃん」と、失踪から19年目にして初めて希望を見出した。
 以下は、立川市立立川第七中学校での講演会より

 大切な子どもがみなさんと同じ年頃の13歳の時、部活のバドミントン強化訓練の練習を終えて、お友達と3人で校門を出て、お腹をすかせ家に向かっていました。家の近くの交差点で友達2人と別れ、日本海が前方に見える暗くて寂しい道をまっすぐ進んで、曲がり角を曲がればすぐにうちがあるという所で、煙のように消えてしまったのです。私たちはこれを国内事件としか思わず、まさか北朝鮮にいるなどとは思いもしませんでした。
 焼却炉の中から死体が出てきて、「めぐみさんは腕時計をしていましたか」と聞かれ、震えが止まりませんでした。しかし、それはめぐみではなくて、ほっとしました。ある時は、「日本海の沖の方で、女性の小さい頭蓋骨が漁船の網に引っかかった」という連絡が入り、ひょっとしてめぐみではないかと、歯の治療カルテを持って震える足で警察まで行きました。次から次へとそのような事件が起こるたびに心臓が止まる思いでした。
 人間がわがまま放題やっていくことがどんなに大変な問題を生じるか、私は聖書から学ばせていただいています。一生に一回だけでも聖書を読んでみてくださると、みなさんの人生のいい羅針盤が与えられ、健康な心と体が与えられると思います。自分の体験からしか言えませんけど、私はそういう思いでお話をさせていただいています。(2011年11月25日)
   めぐみさんが行方不明になった当時、母・早紀江さんに知人が聖書を渡してくれた。ある日、早紀江さんは、聖書を手に取り、「そう言えば、ヨブ記から読んだらと言われたような……」と、その場所を探し出す。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1・21)ヨブ記のこのことばに、私は非常に引きつけられました。人の生も死も神様の御手の中にあって、神様が「今があなたの時ですよ」と言われたら、一瞬にして命が終わるかもしれないし、「あなたにはまだすることがある」と言われれば、どんなに苦痛があっても生きて、この世でご用をさせていただくのかもしれないのです。結局、自分は正しいのだ、これでいいのだと思おうとするから、つらくなったり、わが身を哀れんだりしていたのではないかと思いました。自分の努力で何でもできると思い、それなりに正しい行動と生活をすれば達成感があると思っていた私の小さな考えとはまったく違う、神様の視点というものがあると教えられたのです。
 神は私たちの苦難を共に背負い、その出来事に意味を与えてくださる。だからこの世の人や、貧困などの劣悪な環境を恐れず、神を信頼して生きよう。

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